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「自立の弊害」 | 001

.2005.07.27. / note / sketch

今回は前回に引き続いて「希望格差社会」の論点からこの本の内容に取り組もうと考えていて準備していたのですが、その間、この国の外交、政治、社会を見ていてもうすこしこの命題をより深く掘り下げたほうが better だと感じ、『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』(玄田 有史 (著), 曲沼 美恵 (著)  幻冬舎 ISBN: 4344006380)を軸に、「自立」の「弊害」について現在マスコミで理解不能な< モンスター >として話題にのぼる< neet >と呼ばれる人々の< 実像 >を通して考えていきたいと思います。

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この本の中でも番組の中でも言われていたことですが、neet について、発祥国のイギリスでさえ(詳しくは後述)『よく判っていないことの方がとても多い』ということをまず認識してください。

また、

理解しにくい若者の問題を、意識の低下として片付けることができれば、大人の多くは安心なのだろう。理解できたとして安心して職業意識を啓発する作業に没頭できる。しかし、第三者が人の意識や意欲を変えようというのは、多くの場合、傲慢以外何ものでもない。本人すら分からない心の奥底の意識や意欲について、他人が決めつける権利は、何処にもないからだ。
<中略>
ニートに限らず、どんな状況でも他人に意識について語るとき、人はどこまでも謙虚でなければならない。
<中略>
意識の変化という現実がそこにあったとしても、責めるべきは個人ではない。変化を生み出してきた、社会もしくは経済システムそのものなのだ。

(「ニート―フリーターでもなく失業者でもなく」玄田有史 (著), 曲沼美恵 (著) P244~245)

ということを念頭に置いてください。

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昨今で話題になっている< neet >という言葉ですが、もともとイギリスの現政権(ブレア政権)になった時に生まれました。正確には

Not Education, Employment, or Training

の頭文字をとった言葉で、すなわち

「就学、就業、職業訓練を(何らかの理由)で受けることの出来ない人」

という概念から生まれました。

では、その言葉がどのように社会に認識されてきたかというと、前述イギリス、ブレア政権下( 1997~)で「社会的排除防止局( Socilal Exclusion Unit )」という部局がデータを基く綿密な調査とともに、若者から直接話を聞き、1999年に作成した調査報告書によるものです。(同著 P27)この中では「ドラッグ等におぼれる16~18歳の若者を指す『社会的排除』された人々」という categorise にスポットを当てています。ポイントは<社会的排除>という言葉です。
すなわち、その言葉どおりにその人たちを<社会>からの排除を防止するための調査です。

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ではこの国ではどうでしょう。

2003年、厚生労働省はUFJ総合研究所に委託して調査した「若年者のキャリア支援に係る調査研究」※同年の2月~3月にかけて、18歳以上35歳未満(経済学上<若者>と呼ばれる世代)で、現在無職の人々に対しその生活、意識、経歴を web で尋ねたものによると、約1200人の無職独身者のうち全体の「失業者」:45%,「neet」:14% という構成比になっています。(同著 P40 表2. 35歳未満独身無業者)

この場合、後々正確な定義づけを行うと求職活動中もしくは独立・開業準備をしている人のことを<失業者>と呼び、進学準備も求職活動もしておらず、怪我や病気でもなく、「特に何もしていない」と答えた人を< neet >と呼びました。因みにイギリスではこの<失業者>も< neet >に含まれています。

また、失業者と neet の最終学歴の関係はどうでしょう。

neet では最終学歴が中学卒もしくは高校中退であるという場合が極めて多く(中卒 7.2%、高中退 13.8%)、失業者では、「中卒」: 1.3%, 「高中退」: 4.0% で統計上では、 ここ学歴に相当する人々が neet になりやすいと言えます。(同著 P32 図2. ニートと失業者の最終学歴) しかし一方で失業者の割合で一番多いのは実は大卒者で、3人に1人の割合になっています。neet では、上記のような割合にはなっていますが、大卒者でも、5人に1人の割合です。

すなわち、「大学を出たら、neet に絶対ならない」というのは必ずしもいえないというのも現実です。

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よく、「 neet は甘えだ」という意見を聞きます.この意見は<フリーター>論議や<ひきこもり>論議と同列に言われ、例えば、「それは<社会>が悪い」,「それは<教育>が悪い」,「最近の若者は<甘えている>」という意見をよく耳にします。また、「<徴兵制>を復活すればよい」ということを声高に言う政治家も出てきています。(これは欧米とのギャップで興味深い議論になりますが、今回は割愛)

まず大切なことは、この意見を発する<主体>が「自分がなる可能性は全く無い」という固定観念から生まれていることが多いと認識することです。つまり、多様化した<近代成熟モデル>の現代においてその立場と< 十分に入れ替え可能 >には無いわけです。また、背景には<表現>と<表出>の違いを判らずに自分では<表現>と勘違いしているが、ただ単なる<表出>、言葉を変えると「言いたいことだけを言ってすっきりすること」に過ぎないということです。

実は重要なのはその逆で『誰でも neet やひきこもり、フリーターになる可能性は十分にある』という認識です。簡単に言えば、誰もが弁証法で言う<形而上的思考>で、「(自分の見る)この状態(世界)はずっと続く」という錯覚がありますが、それには何の保証もありませんし、誰も明日のことはわかりません。

では、 neet の人たちがどのように考えているのか、またどのような状況に置かれているのかをより深く考察していきます。

図. 若者の鳥瞰図

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右の「図. 若者の鳥瞰図」を参考にしてください。
内閣府の現在の調査では

① 非活動型... 仕事をする意欲はあるが職探しまでいたっていない
② 非希望型 ... 仕事をする意欲はない

に分けられているようです。具体的には、2004年には52万人(35歳未満)の人が< neet >であるというデータも報告されています。

近代社会においてヒトは人の集まりである<社会>に何かしらの commitment を求めます。それは、大半が<労働>において commitment しようと試みます。すなわち「社会の中で役立っている」と言う実感を得る< identity >の役割です。よって、この状況下にいる人々は「<社会>と繋がりが持てない=自分の<帰属>すべき場所がない」と感じています。また巷では、『< neet >は<ひきこもり>に含まれる』という認識がありますが、これも逆で『< ひきこもり >は< neet >に含まれる』という認識の方が正しいです。

図を見ても判るとおり、相対的に<ひきこもり>の数は 1990 年代からあまり変わっていません。因みに<ひきこもり>=<社会的ひきこもり>とは厚生労働省の定義では

『自宅に引きこもって学校や会社に行かず、家族以外と親密な対人関係が無い状態が6ヶ月以上続いている人』

の状態を言います。

neet の人たちに対する世間一般の意見で最も間違って認識されているのがやはり「働きたくない」という上記のような間違った観念からの「甘え」が上げられますが、むしろ、

『働きたくても<働けない人>』⇒『意欲がありすぎて考えすぎている人』

という認識が正しいようです。

また、「一度就労したがダメだった」という人と、「一度も就労したことが無い」という人の割合は全体の半々の割合を占めますし、「経済的に裕福である」という家庭が多いのではなくこれも「経済的に裕福でない」という家庭との割合が全体の半々の割合を占めているそうです。

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では、上記の『働きたくても<働けない人>』⇒『意欲がありすぎて考えすぎている人』というアンケート結果からより具体的にみていきます。(同著 P38 表3.4)おそらく最も根本的な疑問は『なぜ働こうとしないのか』ということではないでしょうか。多くの割合を占める解答は、一般的イメージで語られる

「仕事につく必要がないから」:6.2%
「他にやりたいことがあるから」:10.8%

と思われますが、実際は

「人付き合いなど会社生活とうまくやっていける自信がないから」:43.1%

という<仕事のなかで人間関係を円滑に進めていく自信が欠けている>ということなのです。

よく「『 communication skill 』が大切だ」と announce されていますが、実際にはその< communication skill >の正確な意味を理解せずに、言い換えれば<理解しているもの>と錯覚しそれは自明のモノとして一方的に announce されている最悪な状況です。前回の column でも書きましたが、「個性を重視しましょう」「自己実現しましょう」という教育方針的 announcement が世間で叫ばれ「働かない人は罪である」という<道徳>と叫ばれています。実際は、それは「高度成長モデル」即ち、「共通の目標の中で誰もが一緒」という画一化された scheme の元で語られています。<周りの流れ>は急激に変わっているのに、<入れ物= vehicle >はそのまま止まっていて、その中の限られた context でしか語られていないというイメージでしょうか。

現在のような近代化を終えた「成熟社会モデル」の中ではその announce では十分な機能を果たしません。なぜなら「共通の目標( ex.家庭に TV がほしい... etc 」はその目標自体が実現されたため存在せず、その自明であった「誰もが一緒」と考えられていたものは、それが<私>にとって適応されるかどうかの疑問の余地が生れます。

すなわちこのようは< announce >は

「fit する人もいれば、fit しない人もいる」

という前提条件が無視され、担保はされません。つまり、この場合の一番の必要条件である

「どのようにすれば<私>は『自己実現』できるのか」
「どのようにすれば<私>は具体的な『目標』を持てるのか」
「どのようにすれば<私>は『個性』はもてるのか」

と言うモデル、<私>にとって<どのようにすれば>という個別の context は具体的に語られず、そういう状況下で、非自明的、一方的に announce されると、それは<私>にとって過度の pressure になり、押し付けでしか在りません。

「自立の弊害」 | 002

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